174日目:タスクシュート × グッドバイブス第四弾が素晴らしかった!

2024/5/26の記録
(大体1日~2日遅れで、当日のタスクシュートとメモを見ながらまとめています)
タスクシュート × グッドバイブスが素晴らしかった!
佐々木正悟さんと倉園佳三さんのタスクシュート × グッドバイブスの第4弾に参加した。

もう丸一日以上経ったけど、まだ余韻に浸っている!
この豪華ダブル登壇セミナーのテーマは
「時間がなくてやりたいことができない!」
といつも思っているのに、
いざ時間ができると
「時間はあるけどやりたいことがやれない!」
に変わってしまう問題!
Zoomの後にどっと疲れて動けなくなることがよくあるため、最近Zoomセミナーのリアルタイム参加は避けていたけど、これは私がずっと闘ってきた問題そのものすぎて。
結果、期待を大きく上回る深い気づきが多く得られたので、参加して本当に良かった。
時間があるというだけでは、やりたいことなどやれないという現実
佐々木正悟さんのターンでは、ビジネス漫画クリエイターの岡野純さんが「土日こそやりたいことなどやれないのが現実なのだ」と学び、平日の早朝に漫画を描くようにしたことで、バリバリの会社員と漫画家の二足のわらじを成功させたという事例をもとに
- 心の底からやりたい
- 時間はたっぷりある
の2つの条件が揃ったからといって「なんでもできる」とは限らない理由が見事に言語化されていた。
そう言われてみればそのとおりで、わたしは
- やりたい(心の底からかどうかは少し疑問符💦)
- 時間はたっぷりある
の2条件が揃っていれば「できるはず」なのに!と理想を描いて、それと比べて「なぜ自分はできないのだろう」と自分を責めていたけれど、そういう仕組みであるなら、なるほどできない方が普通だろうと思えた。
自分固有の問題や欠陥ではないし、問題ではないから修正する必要もなかったって分かったのが、1つ目の救い。でも、このセミナーの気づきはそんな程度じゃ終わらない。
自分が自分を何者だと認識しているのかが行動を決める
佐々木さんは、「時間があるとき」「ひまになったとき」にとる行動は、日頃から「自分が自分を何者だと思っているか」によって100%決まる、どれほど日頃から「やりたいと思っているか」によって決まるのではない、という(細かい表現は違うかも)。
上の岡野さんの例でいえば、月から金までバリバリ「会社員のわたし」をやり、(「会社員のわたし」にとっては憩いの時間であるはずの)土日に「漫画家のわたし」にくるっと変身するよりも、「漫画も描く会社員」という新しいジョブを作り出してジョブチェンジする方が簡単だったってこと。
「自分ってこういう者だよね」っていうのは、要は自分が毎日毎日何に時間をつかっているかとイコールなので、タスクシュートのログがそのままそれを表している……
なので、「わたしは会社員だ」など、「わたし=〇〇」がはっきりしている人ほど、別の何かができる自分になるためには、アイデンティティの書き換えが有効では?という提案だった。
わたしは何者でもない。ネガティブな意味で!
とはいえ、「わたし=〇〇」が固定されていなければ、仕事を追加するのは簡単だ、ともいかないと思う。というのは、わたしは職業名で自分を定義することにとても抵抗があるということに気づいてしまったから。。。
職業名はここでは伏せて●●とするけれど、もう20年近く●●として働いていて、フリーランスになってからも10年以上経っていて、そのほとんどの期間でフルタイム相当分以上の仕事量をこなしてきたから、外から見ればわたしは立派な●●だ。なのに、「1日の大半を●●をして過ごす」という生活は納期直前以外ない、という非常におかしなことになっている。
いつ仕事をしているのか=納期直前のみ(!)
それが先延ばし癖による私の「問題」だと思ってずっと修正を試みていたのだけど、そもそも、その職業である自分を受け入れられていないこと、つまり「わたしは●●ではありません」という自己認識が問題だったのでは???
わたしは何者でもありたくない
わたしは何者以前に、人間として生まれたこと、今生きていること、これからも生きていくいうことも、いまだに受け入れていない感じがする。
「わたしは〇〇ではない」はどれもしっくりくるけど、「わたしは〇〇だ」は・・・まるでピンとこない。
違うか!「わたしは生きづらい」とかだ。「わたしは苦しみを克服している人間だ」とかはピンとくる!
※このあたりで、もう少し何かありそうだと探るものの、あきらめて寝た。ここから5/28
わかった!「わたしは生きていたくない」だ!定義が否定形っていうのはおかしいけれど、無理やり肯定形にするなら「わたしはここから逃げたい」か。前者の方が言葉としてはしっくりくるけど、ほぼ同義。
時間があるときに私がしてしまう、ネット上の文章を惰性で読み続けるなどと一致する。
「生きていたくない」のウソ
さらに、とても重要なことに気づいてしまった。
物心ついた頃からわたしの頭にいつも流れていた「わたしは生きていたくない」っていう言葉には嘘がある。しかも、言語化されたのは確かに今が初めてだけど、言葉のズレを薄々感じながら、便利だから使っていたんだ(だって、そう唱えていれば何もする必要がない。自分の意志で絶対に叶える気がない願望。この言葉には中毒性がある)。
わたしが「生きていたくない」という言葉をつかうときの「生きる」とは「あなたはこの世に存在していいですよ、と世間から承認を得られるような生活をすること」だった!
たとえば、朝早く起きるとか、毎日お風呂に入るとか、人づきあいがうまくできるとか、、、、?1つ1つは些細かもしれない行動の集合体が、私にとって「生きる」のイメージになっている。それって、できる人にはできるらしいけど、私にとっては、まったくできないとは言わないけれど、継続的にとなると、まぁムリでしょう、というくらい難易度が高い「習慣」の集まりになってしまっていて、「生きる」なんてムリだーーーって思ってる。
そういうことができている状態が「人間」として生きるということだと思っているから、私は自己認識上は「人間になれてない」、人間の「出来損ない」だ。だから「人間になる」が普通に目標になってしまう。
で、それは完全に勘違いだから、(自分が生まれ育った世界では学べなかった)別世界の知識を入れて捉えなおすことによって、「あなたはもともと何もしなくても生きていていいんだってことを思い出そうね」っていうのがナリ心理学の言っていることだ。
で、わたしは何者なのか
さっきの自己認識を真実に近い形に言い換えるとこうなる。
「わたしは生きていたくない」
=「毎日毎日、世間から承認を得られるようなちゃんとした生活をするなんて嫌だ!
想像しただけでゾッとする!」
「わたしはここから逃げたい」
=「毎日毎日、世間の目を気にする生活なんてまっぴらだ!
何もしなくてもいい、存在しているだけでいい世界に行きたい!」
しかもこれ、どちらも願望だ。
前日の記事で、世界はどうやら「こうなってほしい」と思ったようにはなるのではなくて、「その思考の裏で本当に思っていること」が現実になるらしい、と書いた。

今回の場合、「生きていたくない」という言葉の裏で本当に思っていることは、「わたしはそのままでは存在してはいけないような人間の出来損ないなので、世間様に「ここにいていいよ」と言ってもらう必要がある」つまり、「わたし=出来損ない」という自己認識だ(ナリ心理学で言う非ダイヤモンド)。
その思考が現実に染み出しているとしたら、わたしが先延ばししまくるのも納得の結果だよな。
アイデンティティの書き換え
こう書きながらだんだんわかってきたのは、今わたしはアイデンティティ(自分は何者かの認識)を書き換えようっていうフェーズにいて、それに盛大に抵抗しているらしいってこと。
「わたし=出来損ない」という自己認識をもったまま、何をやっても出来損ないのままだから意味ないわ。仕事から逃げる?当たり前だよね。わたしは生きづらくて、苦しくて、苦しみから逃げ出したい出来損ないなんだもの。逃げない方が不自然だわ。
なぜ抵抗しているのかを突き詰めていくと、結局、自分を含む人間を信じるのが怖いんだと思う。倉園さんは「信頼は結果に先立つ」って言ってた。先に信頼。でも、それが怖い。
書く前に計画していたわけではまったくないのだけど、ここからはグッドバイブスの話につながっていくみたい。長くなったので、倉園さんのお話(グッドバイブス)については別日に続けることにする。
このセミナーの動画も以下のnoteで後日販売されると思うので、「時間はあるけど(あっても)やりたいことがやれない」という悩みがある方はぜひ!

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